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黒澤明監督と記録映画「東京オリンピック」

黒澤明と東京オリンピック_R

 

東京オリンピック開催から1年後の1965年、その全貌を映像に捉えたドキュメンタリー映画「東京オリンピック」が映画館で上映されました。

その斬新な撮影アプローチと技術による内容は、監督を務めた市川崑さんの「人間としての選手を捉える」というコンセプトによって実現され、観た人々に再びオリンピックの感動を思い起こさせるものとなりました。

国内だけでなく、のちに世界にも高評価を得ることになった記録映画「東京オリンピック」。

ですが、実は制作当初総監督を黒澤明さんが務めることになっていた、と言われています。

何故、突如黒澤明監督から市川崑監督へと交代になったのでしょうか?

その理由は何か、当時の事情などと併せてまとめます。

 

記録映画「東京オリンピック」上演とその制作経緯

 

1965年3月20日、市川崑さん監督による東京オリンピックのドキュメンタリー映画が東宝系で劇場公開されました。

映画は、1964年10月10日?24日に開催された東京オリンピックの模様を
記録した作品でした。

開催から半年も過ぎたにもかかわらず、まだ人々は余韻を忘れずにいました。

競技や選手応援に熱狂した人々は、この映画によってオリンピックで味わった感情と興奮を再び噛みしめたことでしょう。

いかに人々がこの映画に期待をしたかは、6ヶ月間の興行で総動員数1960万人、25億円の収入を得た異例の大ヒットとなった事実が証明しています。

この他、この歴史的ドキュメンタリー映画の制作秘話は、野地秩嘉著文庫「TOKYO オリンピック物語」(小学館)に詳細が興味深く綴られています。

東京オリンピック組織委員会は、当初この公式記録映画の制作には強い期待を抱き、オリンピック開催4年前から黒澤明氏の監督起用を望んでいました。

起用決定により黒澤監督も、1960年のローマオリンピックへ競技観戦に訪れるほど意欲のある取り組みを示していました。

撮影の構想やカメラワークの構想を練りこんだ黒澤監督は、制作予算として5億5000万円を提示しました。

しかし、現代の価値で言えば25億とも言えるこの膨大な予算が制作においてネックとなります。

当時オリンピック組織委員会と東宝側は、劇場公開をしてもこの黒澤監督の提示予算額以上の収入を見込んでいませんでした。

そして、赤字をしてまで黒澤明監督を起用する覚悟もなかったようです。

また、制作するための人員確保にも問題が起きました。

監督の頭の中の構想を実現するためには、日本映画では異例の膨大数の機器と数千人にも渡る撮影スタッフが必要、という提案にも頭を抱えることとなりました。

5億5000万円の制作費は、ローマオリンピックの記録映画の倍以上。

これにより、黒澤明監督による映画「東京オリンピック」は見送られることとなりました。

「作るとなれば良い作品を!そのためには人員や予算は必要!」

という黒澤明監督の信念は理解に値するものの、当時の映画制作にとっては難しい課題となったエピソードです。

 

黒澤明監督の制作アイデア

 

4年に一度のオリンピック、選手たちの試技の美や書き換えられる記録への期待は、人々を興奮の渦へ誘います。

歴史的瞬間の数々に溢れるオリンピックの記録においても、黒澤明監督降板はかえすがえす残念であったと考えられます。

例えば、今ではフィールド競技で当たり前になっている専用レーンで選手達と共に走るカメラ。

また、実際採用された全ての国旗が風にたなびく颯爽としたシーン。

臨場感をより表現するために黒澤監督はこれらのアイデアを考えていたそうです。

このように黒澤監督の尽力によって考案されたアイデアは、ハイスピードカメラもない時代としては斬新すぎるものでした。

しかし、いかにリアルにオリンピックを記録しようとした黒澤明監督の妥協のない映像美への発想は、もし実現できたならばまさしく世界が驚く、歴史を塗り替える作品を生み出しただろうと考えられます。

 

公認市川崑監督の「東京オリンピック」

 

黒澤明監督の降板後、代わって市川崑監督がメガホンを握ることとなりました。

スタッフ総勢265人、使用した映像カメラは83台、そして2億7000万円総予算は、大プロジェクトとなりましたが、組織委員会としては想定内でした。

しかし、結果は黒澤監督の提示予算を相当上回る興行収入と動員数を叩き出しました。

「東京オリンピック」の動員数1950万人は、2001年「千と千尋の神隠し」公開まで破られることなく日本映画における史上最高記録を保持していました。

また、さらにエントリーされたカンヌ映画祭では、国際批評家賞を受賞しましました。

その映像美と今までのドキュメンタリーの観点を超えたとして、「記録か芸術か」と物議を醸した作品となりました。

現在においても、「東京オリンピック」は記録映画として、かつ美しいスポーツ映画として貴重な作品です。

 

記録映画「東京オリンピック」制作を支えたスタッフの功績

 

組織委員会が後任の監督を探す間、すでに撮影はスタートしていました。

「東京オリンピック」はドキュメンタリーだったので、ストーリーや役者いらず、関係するシーンを記録、撮り続けることは可能でした。

その映像記録を引き受けていたのはニュース映画を制作していた7社のスタッフでした。

ニュース映画をご存知の方は今となると少ないと思います。

ニュース映画というのは、当時劇場映画本編前に放映されるニュースのことです。

テレビ普及が少ない時代から、新聞で読んでいたニュースを映画館で動く映像を観ることができるのは、映画本編と共に人々には楽しみの1つでした。

日頃から起きた事件や事故などの実録、映像を制作するニュース映画社のスタッフは、まさしくドキュメンタリーを記録するエキスパート陣でした。

市川崑監督は、1964年1月、プロデューサーの田口助太郎氏と打ち合わせを始め、その3月大会開始半年前、正式に監督に決定となりました。

市川崑監督がシナリオを詩人の谷川俊太郎さんに依頼をした頃、ニュース映画社からのスタッフが動きの激しい競技をいかに鮮明に実録するか思案し、撮影プランを練り上げているところでした。

つまり制作において特筆すべきことは、国内外で高評価を得た芸術的ドキュメンタリー映画「東京オリンピック」の制作を実質支え続けたのは、ニュース映画社のスタッフ達であるということです。

スタッフ達の制作における「より良いものを」という熱意が、のちの評価に繋がり功績を生み、興行成功に導いたと言っても等しいでしょう。

そこで思うことは、やはりこのクルーあって、さらに黒澤明監督の才能を加えたならばどのような作品に仕上がったであろうか、ということ。

もう実現はないと理解しつつもますます想像は膨らむばかりです。

とはいえ、監督交代から短い期間で作り上がった「東京オリンピック」は、50余年を過ぎても色褪せることない作品として現在でも注目が寄せられています。

スポーツの躍動美を表現した映像の妙、手に取るように感じられる選手や観客の熱意、それらを表現した撮影技術は、2度目の東京オリンピックを迎える現在に改めて鑑賞の価値を感じます。

記録映画 「東京オリンピック」は現在DVDで観ることができます。

また、映画制作のエピソードを知ることができる文庫「TOKYOオリンピック物語」(野地秩嘉著/小学館)と併せて映像を鑑賞すると、より当時の東京オリンピックについて真実味を感じることができるでしょう。