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『まあだだよ』(黒澤明映画第30作品あらすじと解説):最後にメガホンを握った作品

1993年(平成5年)4月17日に公開された映画『まあだだよ』。

黒澤監督のデビュー50周年記念にして最後にメガホンを握った作品です。

この記事では、黒澤明監督の30番目の作品となる『まあだだよ』をご紹介します。

映画『まあだだよ』 あらすじ

 

大学でドイツ語を教える百閒先生は、教職とともに作家としても活動していました。

二足のわらじを履いていた百閒先生は、今後の自分を考えたときに、作家としての活動を大事にしたいと考え、勤務先の大学を退職します。

百閒先生の教え子たちは、百閒先生のますますの活躍を祈りつつ、「仰げば尊し」を謳いながら百閒先生を送り出します。

教え子たちから慕われていた百閒先生のもとには、かつての教え子たちがしょっちゅう集合し、酒を飲みながら引き続きつながりを深めていきます。

当時は太平洋戦争が繰り広げられている真っ最中でした。

百閒先生の自宅は、空襲で焼かれてしまいます。

それ以来、百閒先生は小さな小屋を自宅とし、細々と生活をしていました。

そんな百閒先生を見て、太平洋戦争終了後、教え子たちは百閒先生の新しい家を建てることにしたのです。

戦時中の日本を舞台に、百閒先生を中心に展開されるやりとりがとても暖かく、人への思いやりの気持ちや、古き時代へのなつかしさなどをふと思い出させてくれる作品となっています。

 

映画『まあだだよ』 講評

 

「まあだだよ」は、作家として知られる内田百閒さんと、その教え子たちとの交流の様子を映画化したものです。

人間味あふれる作品に仕上がりました。

構想当初、作品自体は3時間近い長編映画になる予定でした。

しかし、監督はじめ映画関係者、役者たちの努力の甲斐あり、2時間14分で納まりました。

1時間近く短縮できただけあり、物事が段取りよく進む場面が目立ってしまいますが、作品自体の内容の充実さにはお見事の一言に尽きます。

黒澤監督は、当初脚本の段階から百閒先生役には松村達雄さんを考えていたそうでしたが、当時の映画スタッフの中では正直そのキャスティングを疑問視する者もいたそうです。

そこで松村さんは黒澤監督と二人だけで稽古を重ね、採用を疑問視する関係者の前で、70歳を過ぎた設定の百聞先生という役を圧倒的な演技力で演じ切りました。

その迫力がある上に熱意のこもった演技の巣晴らしさは、当初採用を疑問視していたスタッフも思わずうなるほどでした。

百聞を実際に知る人からは、松村さんの演技がまるで本物のようだと驚かれたそうです。

思えば、黒澤監督は、デビュー作以来ずっとこだわり続けたテーマがありました。

それは、師匠と弟子の師弟関係でした。

やっとこの内容をテーマ化した作品が遺作となったところに、黒澤監督らしさを痛感します。

黒澤監督は、ただひたむきにがむしゃらに理想を追い続け、他の監督とは全く違う唯一無二の存在でした。

偉大な巨匠としての黒澤監督の思いを、作品のいたるところから感じることができます。

 

映画『まあだだよ』 感想

 

黒澤監督は、最後の作品に再び師弟関係を描きました。

この采配は大成功だったかと問われると、即答はしかねてしまいます。

私は今まで黒澤映画をずっと見てきました。

世代を超えた作品ではありましたが、思っていたほど世代の違いを感じずに見てこられました。

それは黒澤監督の表現方法の巧みさにもよると思いました。

過去の作品が、世代を超えて自分にすんなりと入ってきたからです。

それなのに、今回初めて、明治生まれの人の映画を見ているのだとはっきり実感したのです。率直に申し上げますと、この作品で描かれる師弟関係が、現代を生きる私にすんなりと入ってこないのです。

例えば作品の中では、百閒先生がほんの些細なことでも何か一言言うとします。

「こりゃまいったなあ」とか「先生にはかなわないや」などと言う合いの手が入るのですが、この言葉たちが何となくお世辞に聞こえてしまったり、追従笑いにしか感じられない場面が続きました。

例えば、『椿三十郎』に出演した三船敏郎と金魚の糞たちと同じく見えてしまうのです。

でも、黒澤監督はそれを麗しいと表現しています。

見ている側としては、まるで百閒先生と教え子たちとの微笑ましさを強制されているような気分がぬぐえず、摩阿陀会のシーンでは、あの盛り上がりぶりは正直ホラーでしかありませんでした。

作品を評価する以前に、この作品を実際に見たのに、内容に一生懸命集中したのに、何を得て何を感じたのかが実感できない、というのが私の偽りない正直な気持ちなのです。

純粋な百閒先生を守ってあげたい、という教え子たちの気持ちが作品の中心のように思えるのですが、ほんの小さな集団の中で過ごすだけの百閒先生に、少しでも気持ち良くいてほしいと奔走する人々、先生を師匠のように大事に大事に盛り上げることにどのような意味があるのだろうと思いながら見ていたのが正直な思いです。と言いながらも、だからと言って駄作とは絶対に言い切れない作品なのです。

この作品から、非常に大きな価値を見いだせるはずなのに、実際に大きな価値があるはずなのに、見つけられない自分にふがいなさを感じてしまう、情けなく心の居場所がない気持ちです。

こう思ってしまうのは、この作品には全く問題がなく、単なる世代のギャップに私がついていっていないだけかも知れません。

今はもう確かめるすべがありませんが、黒澤監督ご自身には、百閒先生とよく似た師匠的な存在を持つことが出来ていたのでしょう。

その美しい関係を、あえてフィルムに残したかったのではないかと思えて仕方ないのです。

しかしそれを美しいものととらえる文化そのものが、今の時代には残っていないのかも知れません。

黒澤監督が、このような師弟関係を非常に大事に思っていることは痛いほど伝わってくるのですが、現代ではその思いはただの空回りで、現代を生きる人間にはただの違和感で終わってしまいます。

現代の人間に残るのは、単に明治に生まれた人の遥けさだけになってしまいました。

そう思うと、せっかくのこの人間性あふれる和気あいあいとした作品から、明治の時代を生きた人達が伝えたかった社会への幻滅がかすかに感じられて、ちょっとだけ心が切なくなるのです。